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 ■ 記事No.5005 第二次世界大戦中、「ライバル三菱」とのお話

    前項の「記事No.5004 富士重工はなぜスバル?」で触れた通り、
    スバルの前身は中島飛行機研究所だ。

    この中島飛行機研究所は、1917年に海軍を退役した中島知久平氏
    (海軍機関大尉)が群馬県太田に設立した。
    1945年までの間に民間機・軍用機を合わせて25,935機の飛行機と
    46,726基の発動機(エンジン)を生産した巨大飛行機メーカーだ。

    子供の頃、プラモデルで作った「隼」も「疾風」もこの中島が
    生み出した名戦闘機なのだ。

    さて、この第二次世界大戦中の中島飛行機と三菱の間に、
    ひとつ変わったエピソードがある。

    それは「零戦(ゼロ戦)」の開発だ。

    多くのスバルファンの方々の間で、ゼロ戦=三菱、隼=スバル
    として位置づけられている。これは決して間違いとは言えない。
    だが、ゼロ戦=三菱 は、正確に言えば正しくない。

    1940年、三菱重工名古屋航空機製作所で、ゼロ戦は生まれた。
    しかし、初期型のゼロ戦には三菱重工製の「瑞星エンジン」が
    積まれていて、これがゼロ戦の機体に見合ったパワーを出せない
    エンジンだったのだ(それでも780PSあった)

    その頃中島飛行機では「栄エンジン」を生産しており、
    瑞星よりも160PSもパワーのある940PSを発揮。
    星型空冷14気筒で、当時の技術では圧倒的なパワーを誇る。
    (2年後には1130PSの栄二一型エンジン)

    この頃の日本では軍隊が絶対だった。メーカー同士の事など関係ない。
    即刻、軍の命令で、三菱が作った機体に中島のエンジンを搭載する
    事になる。今、想像するに、ランエボにボクサーエンジンを積む
    ような事を戦時中の日本では当たり前のごとく行っていたのだ(笑)

    世界の歴史の中で5本の指に入ると言われている名戦闘機「ゼロ戦」。
    この誕生の背景には、なんとスバル(中島飛行機)と三菱の合作と
    言う秘話があったのだ。

    また、世界を相手に戦って、散々敵を苦しめたゼロ戦の持ち味は、
    軽い機体にハイパワーエンジンだった。
    これは全く現在のインプレッサやランエボと同じではないか!

    軽い車体にハイパワーのターボエンジンを積み、WRCと言う
    戦場で世界を相手に戦っている姿は、まさにゼロ戦の勇姿そのものだ。

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